2007年2月21日水曜日

人気アイドル等の ニュース

★元祖Tバック中学生 泉明日香が壮絶過去を告白
アメーバニュース
日を増すごとに過激化するU-15アイドル業界。現在発売中の『週刊文春』では、「『小中学生Tバック写真集』が年300万部 娘をハダカにして稼ぐバカ親たち変態教師だけじゃない『ロリコン天国』ニッポン」と題された子役着エロブームの批判記事が3ページに渡り掲載される ...詳細記事へ

★人気アイドルグラビア写真集を取り揃えた電子書籍サイト『艶もぎたて出版』NTTドコモ「i-mode」公式サイトとして堂々オープン!
ValuePress!(プレスリリース)
ジグノシステムジャパン株式会社(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:飯田桂子)は、2007年2月19日(月)にNTTドコモ「i-mode」公式サイトにて、人気アイドルグラビア写真集を取り揃えた電子書籍モバイルサイト「艶☆もぎたて出版」(つや☆もぎたてしゅっぱん)を ...詳細記事へ

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2007年2月19日月曜日

映画 裁判員 制度について

★最高裁、契約書なしで映画制作・裁判員制PRの第2作
日本経済新聞 - 2時間前
映画は、2009年5月までに始まる裁判員制度の広報用映画裁判員」。昨年に続く2作目で、DVD2万枚とビデオ4000本が用意され、3月20日には東京・隼町の最高裁で試写会も予定されている。今回の制作費は約6800万円で、昨年9月にジェイアール東日本企画(東京)を随意契約 ...詳細記事へ

★契約書作らず映画制作 裁判員制度PRで最高裁 東京新聞...詳細記事へ

★中国映画に最高賞 ベルリン国際映画祭
CNN Japan - 57分前
ベルリン──第57回ベルリン国際映画祭は最終日の18日、コンペティション部門の最高賞に該当する金熊賞に「トゥヤの結婚」(中国、王全安監督)を選び、閉幕した。 モンゴル自治区の草原で放牧生活を送っていたヒロインが、離婚と再婚を通じて文明化の波にのまれ ...詳細記事へ

★桃井監督作に優秀アジア映画賞 goo 映画...詳細記事へ

★中国映画に金熊賞 桃井さん監督作品も入賞 ベルリン映画祭 産経新聞...詳細記事へ
 
★「無花果の顔」最優秀アジア映画賞 ベルリン映画祭 中国新聞...詳細記事へ

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2007年2月16日金曜日

韓国映画 ドラマ に関する ニュース

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2007年2月15日木曜日

韓国映画アイドルに関する情報について

韓国映画 ドラマ アイドル に関する情報です。


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2007年2月14日水曜日

ゲド戦記の手嶌葵が、セカンドアルバム「春の歌集」

ゲド戦記(ゲドせんき、Earthsea)は、アーシュラ・K・ル=グウィンによって英語で書かれ、1968年から2001年にかけて出版されたファンタジー小説。世界3大ファンタジーと言う人もいる。 宮崎駿が以前この作品の映画化を申し入れたが断られた事があり、近年になって映画化された作品である。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アースシー(のうち、主にハード語圏)では森羅万象に、神聖文字で表記される「真(まこと)の名前」が存在し、それを知る者はそれを従わせることができる。人は己の真の名をみだりに知られぬように、通り名で呼び合う。主人公を例に採れば、ゲドが真の名で、ハイタカが通り名である。・・・・
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)のサイトはこちら


スタジオジブリのサイトはこちら

手嶌葵が、セカンドアルバム「春の歌集」の記事はこちら

2007年2月13日火曜日

映画『さくらん』バシッと勇気が満ちる?

映画『さくらん』バシッと心に響き、勇気が満ちる、極彩色エンタティメント.

映画『さくらん』は吉原の遊郭に売られてきた ... 大手芸能事務所のアミューズと大手レコード会社のビクターエンタテインメントは、人気バンドサザンオールスターズの楽曲の ...
詳細はこちらから

映画「硫黄島からの手紙」、韓国公開なるか? 

【ソウル7日聯合】今年のアカデミー作品賞や監督賞、脚本賞などにノミネートされているクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」が、国内で公開されるか関心を集めている。

 この映画は第2次世界大戦当時、日米最大の激戦のひとつだった硫黄島の戦いを日本軍の視点で描く。米軍の視点で描いた「父親たちの星条旗」との2部作になっているが、これよりも一段高い評価を受けている。

 しかし、韓国では「父親たちの星条旗」の封切りが15日に確定しているのに対し、「硫黄島からの手紙」は公開そのものが決まっていない。配給会社のワーナーブラザースコリアは「父親たちの星条旗」の反応を見てから「硫黄島からの手紙」の公開時期を決める計画だと話しているが、別の事情もあるのではないかとささやかれている。

 最も大きな問題は、・・・・・続きはこちらから

2007年2月11日日曜日

映画の歴史/1970年代以降

==== その他の動き ====
1962年、[[手塚治虫]]が[[虫プロダクション]]を設立。

=== 1970年代 ===
1970年代には[[菅原文太]]主演の[[仁義なき戦い]]シリーズや[[トラック野郎]]シリーズが大ヒット。[[山口百恵]]・[[三浦友和]]などの俳優を擁した『[[潮騒]]』などがヒットし、又、[[小松左京]]の『[[日本沈没]]』などのSF大作作品が多くなった。

=== 1980年代 ===
1980年代から映画用に作製された[[アニメーション映画|劇場用アニメ映画]]が公開され、金熊賞など海外で高い評価を得る作品が多くなった。

=== 1990年代 ===
1993年、日本で初めて[[シネマコンプレックス]]ができる。

=== 2000年代 ===
近年、多チャンネル時代を迎える中で、海外の映画監督の評価もあり、日本独自の映像表現が見直されるようになった。同時に、低迷する日本映画を支える動きが起こりつつある。その成果があったのか、[[2006年]]は21年ぶりに邦画の興業収入が洋画の興業収入を上回った(日本映画製作者連盟)。だがこれも、フタを開ければ、[[テレビ局]]が出資した映画の[[コマーシャル|CM]]を自局で大量に流し、情報番組などで煽っているという裏がある。それに比例し、テレビ局の口出しが増え、映画の自主性が薄れている。
また、2006年の公開作品総数は821本(1955年以降で最高)、スクリーン数は3062(対前年比136増。3000を超えたのは1970年以来)、入場者数は計1億6427万人余であった(日本映画製作者連盟)。

映画の歴史/1960年代/独立系/ATG

==== 独立系 ====
[[羽仁進]]監督『不良少年』(1961年)、『ブワナ・トシの歌』(1962年)、[[若松孝二]]監督『犯された白衣』(1967年)、『処女ゲバゲバ』(1969年)などが発表された。

==== ATG ====
1961年に、[[日本アート・シアター・ギルド]](ATG)設立(~1992年)。非商業主義的な芸術作品を製作・配給した。第1回配給作品は[[イェジー・カヴァレロヴィチ]]監督『尼僧ヨアンナ』(1962年4月)。初の日本映画作品は[[勅使河原宏]]監督『おとし穴』(1962年7月)。以降、1968年には1000万映画の製作を開始し、[[新藤兼人]]、[[羽仁進]]などの独立系監督のほか、[[三島由紀夫]](作家)、[[実相寺昭雄]](テレビ演出家)、[[寺山修司]](演劇)、[[田原総一朗]](ジャーナリスト)、[[清水邦夫]](演劇)などの異業種出身監督、[[黒木和雄]]、[[松本俊夫]]などの新人など、多くの出身者や作風に門戸を広げた。また1960年代後半には、ピンク映画出身の[[若松孝二]]など、そして大手五社映画を辞した[[大島渚]]、[[今村昌平]]、[[吉田喜重]]、[[篠田正浩]]、[[岡本喜八]]、[[熊井啓]]、[[増村保造]]、[[斎藤耕一]]またはフリーの[[市川崑]]などにも製作と発表の場を与えた功績も大きい。多くの作品が[[キネマ旬報]]ベストテンに選定されるなど高い評価を受け、70年代はもちろん、80年代後半まで大きな潮流となった。

映画の歴史/1960年代/日活/大映

==== 日活 ====
大ヒットとなる和製西部劇[[渡り鳥シリーズ]]、[[流れ者シリーズ]]が始まるが、本格的なテレビ時代の到来と日本の映画産業全体の斜陽化のあおりを受けた上に、アクション映画のマンネリ化、企画不足、[[石原裕次郎]]と[[小林旭]]の二大スターの人気低下、[[堀久作]]社長のワンマン体質からくる放漫経営などが次々に災いして1960年代半ばから業績は急激に悪化。その1960年代には[[吉永小百合]]、[[浜田光夫]]、[[高橋英樹]]、[[渡哲也]]、[[山本陽子]]、[[和泉雅子]]、[[松原智恵子]]、[[藤竜也]]、[[梶芽衣子]]、[[杉良太郎]]といった錚々たる新人スター達も生み出したが、退潮を食い止めることは出来なかった。一方、[[今村昌平]]が『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』(1964年)などの話題作を連発する。[[鈴木清順]]が『東京流れ者』、『けんかえれじい』(1966年)などのちに再評価も受ける傑作群を残すが、『殺しの烙印』(1967年)に不満を持った堀久作社長により解雇される。このほか、監督では[[熊井啓]]、[[浦山桐郎]]らを擁した。

==== 大映 ====
1960年代に入ると[[勝新太郎]]・[[田宮二郎]]が頭角を現すが、[[長谷川一夫]]・[[叶順子 (女優)|叶順子]]の引退(1963年)、[[永田雅一]]社長によって[[五社協定]]にかけられた[[山本富士子]](1963年)・[[田宮二郎]](1968年)の退社、[[市川雷蔵]]の急逝(1969年)で観客数の落ち込みが深刻になり、永田雅一社長のワンマンな放漫経営もあって業績は悪化。日本初の70ミリ映画『釈迦』(1961年)公開など大作映画路線も数作で終わった。この年代の[[大映]]の代表作には、『おとうと』、『ぼんち』(1960年)、『黒い十人の女』(1961年)などの[[市川崑]]監督作品。『妻は告白する』(1961年)、『卍』(1964年)、『清作の妻』(1965年)、『赤い天使』(1966年)、『痴人の愛』(1967年)などの[[増村保造]]監督作品。『斬る』(1962年)、『剣』(1964年)、『剣鬼』(1965年)などの[[三隅研次]]監督作品など。[[大魔神シリーズ]](1966年)、[[ガメラシリーズ]](1965年~1971年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。主な人気シリーズは以下の通り。

:*[[悪名シリーズ]](1961年~69年)[[勝新太郎]]、[[田宮二郎]]主演。
:*[[座頭市物語シリーズ]](1962年~68年)勝新太郎主演
:*[[兵隊やくざシリーズ]](1965年~68年)勝新太郎、[[田村高廣]]主演
:*[[忍びの者シリーズ]](1962年~66年)[[市川雷蔵]]主演
:*[[眠狂四郎シリーズ]](1963年~69年)市川雷蔵主演
:*[[陸軍中野学校シリーズ]](1966年~68年)市川雷蔵主演

映画の歴史/1960年代/東宝/松竹

==== 東宝 ====
[[植木等]]主演の[[無責任シリーズ]]や[[加山雄三]]主演の[[若大将シリーズ]]でヒットを飛ばす。また、社長シリーズや駅前シリーズなど安定したプログラムピクチャー、昭和ゴジラシリーズ、『[[モスラ ]]』などの特撮怪獣映画路線などを持っていたことも強みだった。[[黒澤明]]は、引き続き黒澤プロダクションとの東宝共同製作で、『[[用心棒]]』(1961年)、『[[椿三十郎]]』(1962年)、『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』(1963年)、『[[赤ひげ]]』(1965年)などの作品を発表する。1969年にアメリカの[[20世紀フォックス]]社の戦争映画『[[トラ・トラ・トラ!]]』の脚本と監督を依頼された黒澤は、最終編集権が監督にないハリウッドのシステムに反発。撮影が容易に進まず、激しい心労の末に解任され、自殺未遂事件を起こす。この年代の[[東宝]]の代表作には、[[市川崑]]総監督『東京オリンピック』(1965年)、[[岡本喜八]]監督『日本のいちばん長い日』(1967年)など。

==== 松竹 ====
「大船調」といわれた松竹お得意のメロドラマ路線が、収益を呼べず、1960年に[[城戸四郎]]社長が辞任。監査役の[[大谷博]]が社長となった。[[ヌーヴェルヴァーグ|松竹ヌーヴェルヴァーグ]]と呼ばれた助監督群が相次いでデビューし、[[大島渚]]監督『青春残酷物語』(1960年)、『日本の夜と霧』(1960年)、[[吉田喜重]]監督『ろくでなし』(1960年)、『秋津温泉』(1962年)、[[篠田正浩]]監督『恋の片道切符』(1960年)、『暗殺』(1964年)などの斬新な作品群を発表するが、[[日米安保]]改定問題を扱った[[大島渚]]監督『[[日本の夜と霧]]』が封切り4日後に[[松竹]]によって興行を打ち切られる。松竹を辞めた大島渚は独立プロ創造社を起こすなど、松竹ヌーヴェルヴァーグの監督たちは後に松竹を後にした。[[野村芳太郎]]は『拝啓天皇陛下様』などの人情喜劇、[[コント55号]]主演映画などを監督。[[山田洋次]]監督は『下町の太陽』(1963年)、『馬鹿まるだし』(1964年)などの喜劇作品を経て、1969年より[[男はつらいよ|男はつらいよシリーズ]]を始める。この年代の[[松竹]]の代表作には、[[小林正樹]]監督『切腹』(1962年)、[[中村登]]監督『古都』(1963年)、『紀ノ川』(1966年)などがある。『宇宙大怪獣ギララ』(1967年)、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年)などの怪獣映画も発表するがヒットには至らなかった。

映画の歴史/1960年代/東映

=== 1960年代 ===
*1960年に日本映画の製作本数は574本(日本映画史上最高)。日本映画の黄金期のピークを極める。だが1961年に[[新東宝]]が製作中止(実質的な倒産)するなど、崩壊は始まっていた。1960年代後半になると、[[テレビ]]の普及等に伴い、次第に日本映画は集客力を失い、縮小再生産を繰り返してきた。大手五社の流れは、以下の通り。

==== 東映 ====
観客動員No.1となった[[東映]]は、1960年に[[第二東映]](1年後に[[ニュー東映]]と改称)を設立し、制作本数を倍増して日本映画界の売上50%のシェアを目指したがうまくいかず、2年で解散。映画不況が始まった1960年代から1970年代初めは[[鶴田浩二]]、[[高倉健]]、[[藤純子]](現・富司純子)らを擁して仁侠物ブームを作った([[東映任侠映画]])。この年代の[[東映]]の代表作、人気シリーズは以下の通り。

:*[[宮本武蔵]](1961年)[[内田吐夢]]監督:[[中村錦之助]]主演
:*[[飢餓海峡]](1965年)内田吐夢監督
:*[[博奕打ちシリーズ]] (1968年~72年)[[鶴田浩二]]主演
:*[[日本侠客伝シリーズ]](1964年~71年)[[高倉健]]主演
:*[[網走番外地#シリーズのタイトル|網走番外地シリーズ]](1965年~67年)[[石井輝男]]監督:高倉健主演
:*[[網走番外地#シリーズのタイトル|新網走番外地シリーズ]](1965年~72年)高倉健主演
:*[[昭和残侠伝シリーズ]](1965年~72年) 高倉健主演
:*[[兄弟仁義シリーズ]] (1966年~71年) [[北島三郎]]主演
:*[[緋牡丹博徒シリーズ]](1968年~72年)藤純子(現[[富司純子]])主演)
:*[[極道シリーズ]](1968年~74年)[[若山富三郎]]主演
:*[[女囚701号さそりシリーズ]](1972年~73年)[[梶芽衣子]]主演
:*[[不良番長シリーズ]](1968年~72年)[[梅宮辰夫]]主演
:*[[夜の盛り場シリーズ]](1965年~74年)梅宮辰夫主演
:*[[東映まんがまつり]](1964年~1990年)

映画の歴史/大映

==== 大映 ====
1950年代から1960年代前半にかけて[[長谷川一夫]]を筆頭に三大女優[[京マチ子]]、[[山本富士子]]、[[若尾文子]]そして[[市川雷蔵]]と、日本映画史に残る大スター達を擁し、さらに他社専属やフリーの[[高峰秀子]]、[[鶴田浩二]]、[[岸惠子]]らも出演し、[[溝口健二]]監督『[[近松物語]]』(1954年)、[[吉村公三郎]]監督『夜の河』(1956年)などの名作を多数送り出した。中でも市川雷蔵主演作が人気を呼び、[[森一生]]監督『薄桜記』(1959年)、[[伊藤大輔]]監督『弁天小僧』(1959年)などの時代劇の他、[[市川崑]]監督『炎上』などの文藝作もヒットした。

*このほか、[[新藤兼人]]監督『原爆の子』(1952年)、[[山本薩夫]]監督『真空地帯』(1953年)、[[今井正]]監督『真昼の暗黒』(1956年)などの独立系映画も活発に制作・公開。1957年には[[勅使河原宏]]や[[羽仁進]]などの若手映画人らがグループ「シネマ57」を結成し、実験映画の製作などを行っていた。

映画の歴史/日活

==== 日活 ====
1953年の製作再開以降、[[市川崑]]監督『[[ビルマの竪琴]]』(1956年)などの文藝作を制作していた。五社協定により有力なスターを他社から引き抜けないため、[[石原裕次郎]]、[[小林旭]]、[[浅丘ルリ子]]、[[赤木圭一郎]]、[[宍戸錠]]、[[二谷英明]]、[[川地民夫]]、[[待田京介]]、[[和田浩治]]などの自前のスターを作り出し、若年向けの[[青春映画]]や無国籍アクション映画を製作·配給した。なかでも[[古川卓己]]監督『[[太陽の季節]]』(1956年)、[[中平康]]監督『狂った果実』(1956年)、[[井上梅次]]監督『嵐を呼ぶ男』(1957年)、[[田坂具隆]]監督『[[陽のあたる坂道 (小説)|陽のあたる坂道]]』、[[蔵原惟繕]]監督『風速40米』(1958年)などの石原裕次郎主演作が一世を風靡する。[[川島雄三]]監督『幕末太陽伝』(1958年)などのカルト作品も残している。

映画の歴史/松竹

==== 松竹 ====
[[大庭秀雄]]監督による『[[君の名は]]』(1953年~1954年)を筆頭に、[[今井正]]監督『にごりえ』(1953年)、『キクとイサム』(1959年)をはじめ文芸作が大ヒット。[[小林正樹]]監督『人間の條件』(1959年~1962年)ではヴェネチア国際映画祭サン・ジョルジュ賞、パシネッティ賞など、海外で評価を集めた作品も手がけた。さらに[[福田晴一]]監督・[[伴淳三郎]]出演『二等兵物語』など、松竹がお得意とする喜劇作品もヒットした。[[木下恵介]]監督が『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』(1954年)、『野菊の如き君なりき』(1955年)、『[[喜びも悲しみも幾歳月]]』(1957年)、『[[楢山節考]]』(1958年)などの名作を連発し、[[小津安二郎]]監督も『麦秋』(1951年)、『早春』(1956年)、そして「日本映画の最高傑作」とも評される『[[東京物語]]』(1953年)などを発表した。

映画の歴史/東宝

==== 東宝 ====
[[森繁久弥]]出演の『三等重役』より、サラリーマンシリーズ、[[社長シリーズ]]、[[駅前シリーズ]]が大ヒット。東宝の経営を支えた。[[今井正]]監督『また逢う日まで』(1950年)、『純愛物語』(1958年)、ヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞した[[稲垣浩]]監督『[[無法松の一生]]』(1958年)、[[成瀬巳喜男]]監督『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』(1955年)、[[岡本喜八]]監督『[[独立愚連隊]]』(1959年)などの秀作やヒット作も生み出した。また[[東宝争議]]により一時東宝を離れていた[[黒澤明]]は、『[[生きる]]』(1952年)を皮切りに、『[[七人の侍]]』(1954年)、『[[隠し砦の三悪人]]』(1958年)などの傑作にして大ヒット作を連発。だが、莫大な制作費をかける面もあって、1959年、黒澤プロダクション発足する。その後も東宝とのパートナーシップは続いた。『七人の侍』も公開されていた1954年には、[[ゴジラ]]シリーズがスタートし、1975年まで続くドル箱シリーズとなった。以降、[[小田基義]]監督+[[円谷英二]]特撮監督『[[透明人間 (東宝)|透明人間]]』(1954年)、[[本多猪四郎]]監督+円谷英二特撮監督『獣人雪男』(1955年)、など特撮作品でヒットを飛ばす。東宝映画1000本の記念作品は特撮映画で、稲垣浩監督+円谷英二特撮監督による『[[日本誕生]]』(1959年)だった。

映画の歴史/東映

==== 東映 ====
新作2本立ての量産体制を強行するために子供向けの連続活劇形式の短編を長編に併映する。[[中村錦之助]]、[[東千代之助]]出演の『新諸国物語 [[笛吹童子]]』シリーズ(1954年・三部作)、[[中村錦之助]]、[[東千代之助]]出演の『新諸国物語 [[紅孔雀]]』(1954年・五部作)が子供達に圧倒的に受ける。また、[[市川右太衛門]]、[[片岡千恵蔵]]、[[月形龍之介]]、[[大友柳太朗]]出演の、大人向け時代劇も活性化。[[中村錦之助]]、[[大川橋蔵]]主演作とともに、東映は時代劇王国としての地位を築く。一方、東映現代劇からは1950年代半ばから1960年代前半にかけ[[江原真二郎]]、[[中原ひとみ]]、[[高倉健]]、[[佐久間良子]]、[[梅宮辰夫]]、[[三田佳子]]、[[千葉真一]]、[[大原麗子]]らがデビュー。[[今井正]]監督『米』(1957年)などの現代劇の秀作、ヒット作も残した。また1958年10月、日本初の長編カラーアニメ映画『[[白蛇伝]]』([[宮崎駿]]がアニメ界に入るきっかけの一つとなった作品と言われる)公開するなど、日本アニメ映画の中興の祖としての役割、東映シネマスコープの導入で日本映画のワイド時代を招聘した役割なども特筆的である。

映画の歴史/1950年代

=== 1950年代 ===
*'''1950年'''
:3月、[[近代映画協会]]設立
:5月、[[岩波映画製作所|岩波映画社]]設立
:東横映画と大泉スタジオが合併し、[[東映]]株式会社発足。

*'''1951年'''
:[[木下恵介]]監督『[[カルメン故郷に帰る]]』(日本初のカラー長編)が公開される。
:日動映画(1955年に[[東映動画]])創立。アニメーションのプロダクションとしては最大手となる。
*このころ、映画界に[[レッドパージ]]が広まる。137名追放。
*'''1952年'''
:[[大映]]、[[東宝]]、[[松竹]]、[[東映]]、[[新東宝]]が相互に俳優その他の引き抜きをしない旨の秘密協定「[[五社協定]]」を結ぶ。
*'''1953年'''
:[[日活]]製作再開発表。
:12月、『聖衣』(シネマスコープ第一作)公開
*''''1954年'''
:2月、東映、2本立て興行を開始
:東宝で[[本多猪四郎]]監督+[[円谷英二]]特撮監督『[[ゴジラ]]』公開。怪獣映画流行の始まり。

*[[黒澤明]]監督『[[羅生門 (映画)|羅生門]]』(1951年)の[[ヴェネチア国際映画祭]]グランプリ受賞を皮切りに、日本映画の海外評価が高まる。1950年代前半の海外映画賞受賞は以下の通り。
:*黒澤明監督『羅生門』(1951年)ヴェネチア映画祭グランプリ
:*[[溝口健二]]監督『西鶴一代女』(1952年)ヴェネチア国際映画祭国際賞
:*溝口健二監督『[[雨月物語]]』(1954年)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞
:*黒澤明監督『[[生きる]]』(1954年)[[ベルリン映画祭]]銀熊賞
:*黒澤明監督『[[七人の侍]]』(1954年)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞
:*溝口健二監督『山椒大夫』(1954年)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞
:*[[衣笠貞之助]]監督『地獄門』(1954年年)[[カンヌ映画祭]]グランプリ

*1950年代は日本映画産業の頂点であった。[[黒澤明]]、[[小津安二郎]]、[[円谷英二]]などの作品は、後に[[スティーブン・スピルバーグ]]、[[フランシス・フォード・コッポラ]]監督等、海外の映画監督の作品に多大な影響を与える事となる。特に『[[ゴジラ]]』と『[[七人の侍]]』は映画界に革命をもたらしたと言われる。各社の動向は以下の通り。

映画の歴史/1940年代

=== 1940年代 ===
*'''1940年'''
:1月、主要六大都市で「[[文化映画]]」の上映が強制上映となる。
:12月、「[[映画之友]]」「[[キネマ旬報]]」などの映画雑誌が全て廃刊。(映画雑誌の定期刊行物統制の始まり)。
*'''1941年'''
:1月1日から全国の映画館でニュース映画・文化映画の強制上映が開始される。
*'''1942年'''
:1月、新興キネマ、大都映画、日活の製作部門、が合併して大日本映画製作株式会社(戦後の[[大映]])発足。この戦時統合により、映画会社が松竹・東宝・大日本映画製作の3社に集約される。
:[[山本嘉次郎]]監督+[[円谷英二]]特撮監督『[[ハワイ・マレー沖海戦]]』(日本初の[[特撮映画]])が公開。
*'''1943年'''
:3月、アニメ作家[[瀬尾光世]]の『[[桃太郎の海鷲]]』(日本初の長編アニメ映画)が[[海軍省]]の後援で公開上映。
:9月、[[大政翼賛会]]の要請により映画上映前に軍歌「[[愛国行進曲]]」「[[海ゆかば]]」が流されるようになる。
:東宝の[[黒澤明]]が『[[姿三四郎 (映画)|姿三四郎]]』、[[木下恵介]]が『花咲く港』で監督デビューし、共に「国民映画奨励賞」を受賞する。
*'''1944年'''
:4月、[[瀬尾光世]]による長編アニメ『[[桃太郎 海の神兵]]』が公開上映。
:12月、映画フィルムが欠乏し、全国731の映画館に対し供給が停止。
*'''1945年'''
:8月15日、終戦。
:[[GHQ]]による映画管理が始まり、空襲で焼け残った戦前の映画作品の大部分が処分され、[[時代劇]]も禁止された。民主啓蒙映画や反封建的な時代劇は許可された。
:11月、各映画会社、従業員組合結成
:12月、[[映画法]]廃止
*'''1946年'''
:1月、[[GHQ]]の映画検閲が開始
*'''1947年'''
:1月、[[新東宝]]映画製作所設立
:7月、[[東横映画]]株式会社設立
*'''1948年'''
:3月、[[黒澤明]]ら「[[映画芸術協会]]」設立
:8月、[[東宝争議]]起こる。撮影所を占拠した組合員に対し武装警官や占領軍の戦車や飛行機まで出動するまでに至る
:組合主流の共産主義者たちの態度に反撥した映画スタッフを中心に[[新東宝]]が設立される。
:[[日本映画監督協会]]が復活。
*'''1949年'''
:6月、[[GHQ]]の要請で映画倫理規定管理委員会([[映倫]])発足
:10月、[[東映]]の前身、東京映画配給株式会社設立

*40年代では[[伏水修]]監督『支那の夜』(1941年)。[[稲垣浩]]監督『江戸最後の日』(1941年)。[[山本嘉次郎]]監督『[[加藤隼戦闘隊]]』(1944年)。[[木下恵介]]監督『大曾根家の朝』(1945年)。[[黒澤明]]監督『[[わが青春に悔なし]]』(1946年)、『[[醉いどれ天使]]』(1948年)、『[[野良犬 (映画)|野良犬]]』(1949年)。[[吉村公三郎]]監督『安城家の舞踏会』(1947年)。[[伊藤大輔]] 監督『[[王将 (阪東妻三郎版)|王将]]』(1948年)、[[小津安二郎]]監督『長屋紳士録』(1947年)、『晩春』(1949年)。[[今井正]]監督『[[青い山脈 (映画)|青い山脈]]』(1949年)などの作品が発表された。

映画歴史/1930年代

=== 1930年代 ===
*'''1930年'''
:2月、[[鈴木重吉]]監督『何が彼女をさうさせたか』がヒット。[[内田吐夢]]監督『生ける人形』、[[溝口健二]]監督『都会交響曲』、[[伊藤大輔]]監督『新人斬馬剣』などの[[傾向映画]](左翼思想を背景に社会矛盾、階級対立をテーマとした映画)が全盛となる。
*'''1931年'''
:帝キネが解散して[[新興キネマ]]として再生する。
*'''1932年'''
:[[五所平之助]]監督の『[[マダムと女房]]』(日本初の[[トーキー]]映画)が公開。トーキーの流行で、弁士、楽士らの反トーキー・ストライキ起きる。またトーキーの登場は、採算面から独立プロを直撃し、映画製作は映画会社が専門的に行う傾向が高まる。
:[[入江たか子]]、女優で初の独立プロダクションを設立、[[溝口健二]]が参加。
:[[小林一三]]が映画興業に進出して「写真化学研究所([[PCL]])」(現・[[東宝]]の前身のひとつ)を設立する。
:11月、「宝塚キネマ」が設立される。[[コダック]]の日本代理店だった「長瀬商会」(現・[[長瀬産業]])が京都の映画フイルム現像工場を分離独立させて「極東フィルム研究所」(後の極東現像所、現[[イマジカ]]の前身)を設立する。
*'''1933年'''
:[[上原謙]]が立教大学の学生から松竹入社。新たな映画スターのタイプを作る。
:3月、「映画国策建議案」衆議院で可決。[[映画法]]などの先駆け。官僚統制が始まる。
:6月、銀座に「[[大都映画]]」(後の[[大映]]の前身のひとつ)が設立される。
*'''1934年'''
:1月、[[富士写真フイルム]]創立、国産フィルム量産を発表。同月、日活が現代劇部門を「[[日活撮影所|多摩川撮影所]]」に移転。
:2月、正月に[[有楽町]]に「[[東京宝塚劇場]]」をオープンさせた[[小林一三]]が本格的に東京進出を図り、映画館「日比谷映画劇場」を開場。
:3月、[[内務省]]が映画統制委員会を設置。
:日活京都撮影所の企画部長の[[永田雅一]]が退職して「[[第一映画]]撮影所」を設立。[[川口松太郎]]、[[伊藤大輔]]、[[溝口健二]]や[[山田五十鈴]]らが参加した。
*'''1935年'''
:11月、映画の国家統制機関「[[大日本映画協会]]」が設立される。
:12月、有楽町の[[日本劇場]]の地下に戦況ニュース映画・短編映画を上映する専門館「第一地下劇場」(日本初のニュース映画館)がオープン。
*1935年あたりから[[榎本健一]]がドタバタ喜劇で人気急上昇。
*'''1936年'''
:[[松竹]]キネマが[[松竹蒲田撮影所]]を神奈川県鎌倉の大船に移転し「[[松竹大船撮影所]]」が開設される。以降、[[大船調]]と呼ばれる独自のカラーを作った。
:映画監督の自主独立・相互扶助などを目的に「監督協会」(現[[日本映画監督協会]])が誕生する。
:10月、京都にニュース映画専門館「松竹京都ニュース劇場」(関西初のニュース映画館)が開館する。
*'''1937年'''
:2月、[[小林一三]]が東京錦糸町に「江東楽天地」(現[[東京楽天地]])を設立する。
:4月、松竹キネマが演劇興行の「松竹興行」と合併し、映画・演劇を一元化を図り「[[松竹]]」と改称して新発足する。
:5月、大阪に「大鉄映画劇場」(現[[きんえい]])が設立される。
:8月、[[満州国]]の国策映画制作会社「[[満州映画協会]]」(満映)が設立される。
:9月、[[東宝]]映画会社発足(写真科学研究所、[[PCL]]、東宝映画配給、JOスタジオが合併)。
:11月、林長二郎が暴漢に襲われ、重傷を負う(林長二郎事件)。長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、新興キネマ京都撮影所長の[[永田雅一]]らに教唆され、犯行におよんだもの。林長二郎はこの名を松竹に返し、本名の[[長谷川一夫]]を名乗るようになった。
:輸入配給会社「東和商事」(現[[東宝東和]]の前身)の[[川喜多長政]]が「[[新しき土]]」(日本初の日独合作映画)を[[アーノルド・フランク]]、[[伊丹万作]]監督、[[円谷英二]]の特撮で制作する。
:独立プロ「片岡千恵蔵プロダクション」が解散し、社員全員が日活京都に入社。嵯峨野の撮影所は「日活京都第二撮影所」となる
:独立プロ「嵐寛寿郎プロダクション(第二次)」が解散し、嵐寛を除く社員全員が[[新興キネマ]]に入社する。
:*この年を頂点として日本の白黒映画の黄金期が訪れ、次々と名キャメラマンも生まれた。サイレント映画時代から『狂った一頁』などで知られていた杉山公平、『浪人街』『浪花悲歌』『祇園の姉妹』の三木稔、『人情紙風船』ではハリウッドで[[グレッグ・トーランド]]の助手をしていや三村明、また『土』の碧川道夫、『五人の斥候兵』の伊佐山左三郎、『川中島合戦』の三浦光雄など多くのキャメラマンが個性を発揮し、それは戦後の黄金期まで続いた。
*'''1938年'''
:3月、東和商事(現[[東宝東和]])の製作の日本と[[満州映画協会]]の協同作品『東洋平和の道』が[[帝国劇場]]にて上映される。
:4月、「支那事変特別税法」が施行され、映画館に映画入場税が課税([[映画入場税]]の始まり。平成の[[消費税]]の導入で廃止)。
:12月、松竹の女優、[[岡田嘉子]]が演出家の[[杉本良吉]]と共に[[樺太]]国境を越え、[[ソビエト]]に亡命する。
:[[東横映画]]設立。
:[[大阪毎日新聞]]がニュース映画、文化映画を製作する映画部(現・[[毎日映画社]])を設置する
:神戸の富豪、[[池長孟]](のち[[淀川長治]]の姉と結婚)が、アメリカから輸入したカラー映写フィルムで東京・大阪・神戸の市街を映写撮影する。
*'''1939年'''
:4月5日。「[[映画法]]」(映画の事前検閲など国が直接に映画内容に関与した法律。1945年11月廃止)が公布。自由な映画製作が不可能となる。
*佐藤武監督『[[チョコレートと兵隊]]』(1938年)がのちの太平洋戦争中、アメリカ国務省が編成した対日宣伝研究プロジェクト・チームによって、日本人の国民性研究の最も適当なテキストと考えられ、英語字幕を入れて研究試写に使われた。
*30年代では[[伊丹万作]]監督『国士無双』(1932年)、『赤西蠣太』(1936年)、[[小津安二郎]]監督『生まれてはみたけれど』(1932年)、[[山中貞雄]]監督『抱き寝の長脇差』(1932年)、『丹下左善余話百万両の壷』(1935年)『[[人情紙風船]]』(1937年)、内田吐夢監督『人生劇場』(1936年)。[[成瀬巳喜男]]監督『妻よ薔薇のやうに』(1935年)、[[溝口健二]]監督『浪華悲歌』、『[[祇園の姉妹]]』(1936年)、[[野村浩将]]監督『[[愛染かつら]]』(1938年)、[[山本嘉次郎]]監督『綴形教室』(1938年)などの作品が発表された。

日本映画の歴史/1899-1920年代

== 歴史 ==
=== サイレント時代 ===
*'''1899年'''
:史は、1899年(明治32年)に始まる。この年の6月20日、短編ドキュメンタリー映画『芸者の手踊り』公開(東京[[歌舞伎座]])。これは小西本店(後の小西六写真工業、現[[コニカミノルタ]])の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。
:同年、柴田常吉と駒田好洋が共同撮影した『ピストル強盗清水定吉』(日本初の劇映画)が上映され、主演の[[横山運平]]が日本初の映画俳優となる。
:11月には、柴田常吉の撮影にて「紅葉狩」が撮影され、主演の[[市川團十郎 (9代目)]]、[[尾上菊五郎 (5代目)]]の出世作となった。※[[活動写真]]項も参照のこと
:*初めてカーボンを利用した人工光線による撮影を試みた藤原幸三郎や夜間撮影を始めたキャメラマンがいる。彼らは現像などにも関わらざるを得ず、その時の枝正義郎、玉井昇、大洞元悟の果たした役割もある。
*'''1900年'''
:3月、吉沢商店が国産映写機を発売する。
:10月。[[浅草六区]]に「浅草電気館」(日本初の映画常設館)が開設され、着色無声映画が上映される。
*'''1904年'''
:吉沢商店、横田商会らが[[日露戦争]]実写撮影班を現地に派遣。ドキュメンタリー映画が大ヒットする。
*1'''907年'''
:大阪・難波[[千日前]]に横田商会活動写真販売部直営の常設映画館「電気館」(第一電気館、大阪初の常設映画館)が開業する。
*'''1908年'''
:1月、吉沢商店が、東京・目黒行人坂上に映画撮影所「目黒撮影所」(日本初の映画撮影所)を開設する
:京都の芝居小屋の狂言方であった[[牧野省三]]が横田商会公開用に監督した『本能寺合戦』(日本最初の劇映画)公開。牧野は翌年に、歌舞伎俳優の[[尾上松之助]]主演の『碁盤忠信』をヒットさせ、以降、尾上は「目玉の松ちゃん」の愛称で『豪傑児雷也』(1921年)などの作品で日本映画最初のスターとなる。
:12月。有楽町・[[数寄屋橋]]きわに全館椅子席の映画館「有楽座」(日本初の全館椅子席の映画館、[[関東大震災]]で焼失)が開業。
*'''1909年'''
:6月、「活動写真界」(最初の映画雑誌)創刊。
*'''1910年'''
:10月、[[伊藤博文]]暗殺の瞬間が実写フィルムで撮影される。
:11月。Mパテー商会(日活の前身のひとつ)が[[白瀬矗]]中尉の南極探検隊に撮影隊を派遣して、実録映画の撮影に成功する。
*'''1912年'''
:9月、日本活動写真株式会社(略称[[日活]])、横田商会・吉沢商店・Mパテー商会・福宝堂の既成4社の合併による日本で最初の大手映画会社として発足。
*'''1913年'''
:10月。日本活動写真が「[[日活撮影所|向島撮影所]]」(日本初の近代映画スタジオ)を建設し、新派の現代劇映画の製作を開始する。
*'''1914年'''
:4月、映画会社、[[天然色活動写真]](天活)が『義経一本桜』(日本初の着色映画)を封切り公開する。
:東京シネマが定期ニュース映画を製作開始。
*'''1917年'''
:日活と天活が漫画映画を製作開始。
:[[警視庁]]が客席を男女別に規制する「活動写真取締規則」を公布。
*'''1919年'''
:7月、「[[キネマ旬報]]」創刊。
*1910年代後半には、欧米流の洗練された映画に変革しようする、日本映画の近代化運動「純粋映画劇運動」が起こる。その結果、日本初の女優[[花柳はるみ]]を使った[[帰山教正]]監督の『生の輝き』(1918年)、[[田中栄三]]監督の『生ける屍』、[[小山内薫]]が指導し[[村田実]]が監督した『路上の霊魂』(1921年)などの作品が生まれた。
*'''1920年'''
:[[松竹]]キネマ合名会社設立。
:松竹キネマ合名社ができたときに、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響は大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。
*'''1921年'''
:2月、芝居興行の「松竹」のキネマ部が本格的に映画事業に参入。「松竹キネマ」と改称して新発足
:6月、「[[松竹蒲田撮影所]]」が誕生し、[[栗島すみ子]]が入社する。
:[[帝国キネマ|帝国キネマ演芸]](通称帝キネ)創立。同年、最初のアニメーション映画プロダクションである[[北山映画製作所]]成立。
*'''1923年'''
:4月、日活の映画監督・[[牧野省三]]が同社を退社し、[[マキノ映画製作所]]を創立。
:[[阪東妻三郎]]がマキノ映画からデビュー、のちに[[嵐寛寿郎]]のように、歌舞伎界から移籍し、映画俳優となるケースが続く。
:12月、[[八千代生命]]が[[東亜キネマ]]株式会社が創立する。
:*日本の映画史が二分されるというべき大事、つまり[[関東大震災]]が起きた年に米国ではパンクロマティック・フィルムが発売された。この映画技術上のフィルムの進歩が白黒映画に大きな表現力を与えた。それまでのオーソクロマティック・フィルムは赤と黒の区別がつかず、唇が真っ黒に写ってしまうが、パンクロマティック・フィルムの導入と照明におけるカーボン・ライトからタングステン・ライトへの転換は、陰影を基調とした日本映画を大きく発展させることになる。
*'''1924年'''
:[[活動写真]]の全国統一的な検閲作業が[[内務省]]の所管ととなる。
:12月、[[キネマ旬報]]社、年間ベスト・テン映画選奨始める。
*'''1925年'''
:7月、内務省、活動写真検閲全国統一を行う。
:9月、阪東妻三郎、独立プロダクションを設立。名作『[[雄呂血]]』を製作する。
*'''1926年'''
:阪東プロダクションが京都の太秦村に「太秦撮影所」(現[[東映太秦撮影所]])を開設する。
*'''1927年'''
:12月、京都の郊外・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映太秦撮影所)が開設される。
*'''1928年'''
:4月、[[嵐寛寿郎]]、[[片岡千恵蔵]]が独立プロダクションを設立。嵐寛プロには[[山中貞雄]]、千恵プロには[[稲垣浩]]、[[伊丹万作]]などの優れた映像作家を輩出した。
*'''1929年'''
:2月、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)創立。
*当時は、セリフだけではなく内容を語りで表現して解説する[[活動弁士]](弁士)付きで上映された。
*1923年の[[関東大震災]]、[[第二次世界大戦]]の戦災で、燃えやすかったフィルムは消失、散逸し、この時期の作品は残存していないケースも多い。
*[[溝口健二]](『東京行進曲』(1929年)ほか)、[[小津安二郎]](『[[大学は出たけれど]]』(1929年)ほか)などの監督も、若き日にサイレント作品を手がけ、のちの世界的評価を受ける作品の礎を築いている。
*1920年代では、[[ヘンリー小谷]]監督「島の女』(1920年)、[[野村芳亭]]監督『夕刊売り』(1921年)。[[二川文太郎]]監督『雄呂智』(1924年)、[[衣笠貞之助]]監督『狂った一頁』(1926年)、[[伊藤大輔]]監督『忠次旅日記』(1927年)などが話題を呼んだ。

映画/日本映画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本映画(にほんえいが)は、日本国籍を持つ者又は日本の法人によって製作された映画で、ほとんどの場合、日本人の映画スタッフと俳優で構成され、主に日本国内の映画館等で公開される映画を指す。邦画(ほうが)とも呼ぶ。明治・大正・昭和初期の日本では映画は活動写真、キネマ、シネマ等と呼ばれた。以来、100年を超えて、日本映画は製作され続けている。

映画/概説

==概説==
一般的に専用施設([[映画館]]等)の中で[[スクリーン]]に投射して公開する作品を指す。その撮影工程は特に問われない。
[[20世紀]]に大きな発展を遂げた表現手段であり、映画は今や芸術と呼ぶべき水準に達している。また、古来からの芸術である[[絵画]]、[[彫刻]]、[[音楽]]、[[文学]]、[[舞踊]]、[[演劇]]、[[建築]]と並び称され「第八芸術」ともしばしば呼ばれる。
表現の対象とする分野からは大きく、フィクションとノンフィクションに大別される。


上述したように映画は映画館等の専用施設で上映されることを前提とした表現様式であるが、最初から[[テレビ]]での放映を目的に映画フィルムで撮影される映画作品もある。このような作品を'''[[テレビ映画]]'''と呼び、[[1960年代]]のアメリカではテレビ番組の主力として[[西部劇]]やホーム[[ドラマ]]が多く製作された。これらはアメリカにおいて広く鑑賞されたが、日本にも数多く輸入され、特にホームドラマは日本の生活文化に無視できない影響を与えた。ただし、この種のものが今日の日本で新しく撮影・製作されることは稀である。

また、劇場公開されず、ビデオテープ等の媒体に収録されて販売・レンタルの対象となる作品を'''ビデオ映画'''、[[オリジナルビデオ]]等と呼ぶ。近年は、[[広帯域インターネット接続|ブロードバンド]]の普及を始めとした動画配信の方法が発達したことや、時代背景の変化などにより、これまで映画と呼ばれてきた作品の種類や範囲が多様化してきている。


写真フィルムで撮影した素材をデジタル化し、加工・編集する技術も20世紀以来、用いられるようになった。近年では、[[HD24p]]等の[[デジタル]]機器で撮影、編集され、その後フィルムに変換されたうえで 劇場に納品される。音声情報も映画館の多チャンネル[[サラウンド]]化に伴い、フィルムに焼き付けずに[[CD-ROM]]などで納品される場合が増えてきた。

映画/活動写真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

活動写真(かつどうしゃしん)は明治・大正期における映画の呼称。元来は幻灯機の事を指す。後に意味が変じて、映画を指すようになった。自動幻画、活動大写真、自動写真という呼称もあった。映画という名称が広く使われるようになるのは昭和になってからである。

1896年(明治29)11月17日、神戸市の高橋新治が輸入したキネトスコープ(当時はニーテスコップと呼ばれた)の映像を、滞在中の小松宮彰仁親王に見せた事が、11月19日付の神戸又新日報の「ニーテスコップ(電氣作用寫眞活動機械)之儀 今般小松宮殿下御來港ニ際シ御照覧ニ奉供候」という記事になった。当初は活動写真ではなく、写真活動機と呼ばれたことが分かる。

同じ頃、フランスに渡っていた稲畑勝太郎は同窓生であったオーギュスト・リュミエールから2台のシネマトグラフを購入していた。又、この年、荒木和一がヴァイタスコープ(キネトスコープの改良型。スクリーン投射可能)を輸入し、その機械に「活動写真」と命名したと言われる。

明けて1897年(明治30年)2月15日には、フランスから帰国した稲畑勝太郎がシネマトグラフの映像を大阪市戎橋通りの南地演舞場で上映し、好評を博した。日本初の「映画興行」である。3月6日には、東京・神田錦輝館で「電気活動大写真会」と銘打ち、ヴァイタスコープによる興行も行われた。

日本で国産第一号の活動写真が公開されたのは、1899年(明治32)6月20日、東京歌舞伎座。「芸者の手踊り」という題の記録映画だった。 劇映画の第一号「稲妻強盗」は同年9月に製作された。日本の映画俳優第一号は、この作品に出演した横山運平だと言われている。

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