== 歴史 ==
=== サイレント時代 ===
*'''1899年'''
:史は、1899年(明治32年)に始まる。この年の6月20日、短編ドキュメンタリー映画『芸者の手踊り』公開(東京[[歌舞伎座]])。これは小西本店(後の小西六写真工業、現[[コニカミノルタ]])の浅野四郎がゴーモン社製の撮影機にて芝・紅葉館で実写撮影し、駒田好洋が率いる「日本率先活動写真会」によって一般公開された。
:同年、柴田常吉と駒田好洋が共同撮影した『ピストル強盗清水定吉』(日本初の劇映画)が上映され、主演の[[横山運平]]が日本初の映画俳優となる。
:11月には、柴田常吉の撮影にて「紅葉狩」が撮影され、主演の[[市川團十郎 (9代目)]]、[[尾上菊五郎 (5代目)]]の出世作となった。※[[活動写真]]項も参照のこと
:*初めてカーボンを利用した人工光線による撮影を試みた藤原幸三郎や夜間撮影を始めたキャメラマンがいる。彼らは現像などにも関わらざるを得ず、その時の枝正義郎、玉井昇、大洞元悟の果たした役割もある。
*'''1900年'''
:3月、吉沢商店が国産映写機を発売する。
:10月。[[浅草六区]]に「浅草電気館」(日本初の映画常設館)が開設され、着色無声映画が上映される。
*'''1904年'''
:吉沢商店、横田商会らが[[日露戦争]]実写撮影班を現地に派遣。ドキュメンタリー映画が大ヒットする。
*1'''907年'''
:大阪・難波[[千日前]]に横田商会活動写真販売部直営の常設映画館「電気館」(第一電気館、大阪初の常設映画館)が開業する。
*'''1908年'''
:1月、吉沢商店が、東京・目黒行人坂上に映画撮影所「目黒撮影所」(日本初の映画撮影所)を開設する
:京都の芝居小屋の狂言方であった[[牧野省三]]が横田商会公開用に監督した『本能寺合戦』(日本最初の劇映画)公開。牧野は翌年に、歌舞伎俳優の[[尾上松之助]]主演の『碁盤忠信』をヒットさせ、以降、尾上は「目玉の松ちゃん」の愛称で『豪傑児雷也』(1921年)などの作品で日本映画最初のスターとなる。
:12月。有楽町・[[数寄屋橋]]きわに全館椅子席の映画館「有楽座」(日本初の全館椅子席の映画館、[[関東大震災]]で焼失)が開業。
*'''1909年'''
:6月、「活動写真界」(最初の映画雑誌)創刊。
*'''1910年'''
:10月、[[伊藤博文]]暗殺の瞬間が実写フィルムで撮影される。
:11月。Mパテー商会(日活の前身のひとつ)が[[白瀬矗]]中尉の南極探検隊に撮影隊を派遣して、実録映画の撮影に成功する。
*'''1912年'''
:9月、日本活動写真株式会社(略称[[日活]])、横田商会・吉沢商店・Mパテー商会・福宝堂の既成4社の合併による日本で最初の大手映画会社として発足。
*'''1913年'''
:10月。日本活動写真が「[[日活撮影所|向島撮影所]]」(日本初の近代映画スタジオ)を建設し、新派の現代劇映画の製作を開始する。
*'''1914年'''
:4月、映画会社、[[天然色活動写真]](天活)が『義経一本桜』(日本初の着色映画)を封切り公開する。
:東京シネマが定期ニュース映画を製作開始。
*'''1917年'''
:日活と天活が漫画映画を製作開始。
:[[警視庁]]が客席を男女別に規制する「活動写真取締規則」を公布。
*'''1919年'''
:7月、「[[キネマ旬報]]」創刊。
*1910年代後半には、欧米流の洗練された映画に変革しようする、日本映画の近代化運動「純粋映画劇運動」が起こる。その結果、日本初の女優[[花柳はるみ]]を使った[[帰山教正]]監督の『生の輝き』(1918年)、[[田中栄三]]監督の『生ける屍』、[[小山内薫]]が指導し[[村田実]]が監督した『路上の霊魂』(1921年)などの作品が生まれた。
*'''1920年'''
:[[松竹]]キネマ合名会社設立。
:松竹キネマ合名社ができたときに、松竹が呼んだハリウッドの現役キャメラマン、ヘンリー小谷が果たした影響は大きい。彼がレフ板を華麗に用いて撮影したというエピソードは、日本が映画を単に映すという段階から、一歩進んで商品として、新しい芸術、メディアとしての映画のあり方を象徴するものだった。
*'''1921年'''
:2月、芝居興行の「松竹」のキネマ部が本格的に映画事業に参入。「松竹キネマ」と改称して新発足
:6月、「[[松竹蒲田撮影所]]」が誕生し、[[栗島すみ子]]が入社する。
:[[帝国キネマ|帝国キネマ演芸]](通称帝キネ)創立。同年、最初のアニメーション映画プロダクションである[[北山映画製作所]]成立。
*'''1923年'''
:4月、日活の映画監督・[[牧野省三]]が同社を退社し、[[マキノ映画製作所]]を創立。
:[[阪東妻三郎]]がマキノ映画からデビュー、のちに[[嵐寛寿郎]]のように、歌舞伎界から移籍し、映画俳優となるケースが続く。
:12月、[[八千代生命]]が[[東亜キネマ]]株式会社が創立する。
:*日本の映画史が二分されるというべき大事、つまり[[関東大震災]]が起きた年に米国ではパンクロマティック・フィルムが発売された。この映画技術上のフィルムの進歩が白黒映画に大きな表現力を与えた。それまでのオーソクロマティック・フィルムは赤と黒の区別がつかず、唇が真っ黒に写ってしまうが、パンクロマティック・フィルムの導入と照明におけるカーボン・ライトからタングステン・ライトへの転換は、陰影を基調とした日本映画を大きく発展させることになる。
*'''1924年'''
:[[活動写真]]の全国統一的な検閲作業が[[内務省]]の所管ととなる。
:12月、[[キネマ旬報]]社、年間ベスト・テン映画選奨始める。
*'''1925年'''
:7月、内務省、活動写真検閲全国統一を行う。
:9月、阪東妻三郎、独立プロダクションを設立。名作『[[雄呂血]]』を製作する。
*'''1926年'''
:阪東プロダクションが京都の太秦村に「太秦撮影所」(現[[東映太秦撮影所]])を開設する。
*'''1927年'''
:12月、京都の郊外・太秦村に「日活太秦撮影所」(後の大映太秦撮影所)が開設される。
*'''1928年'''
:4月、[[嵐寛寿郎]]、[[片岡千恵蔵]]が独立プロダクションを設立。嵐寛プロには[[山中貞雄]]、千恵プロには[[稲垣浩]]、[[伊丹万作]]などの優れた映像作家を輩出した。
*'''1929年'''
:2月、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)創立。
*当時は、セリフだけではなく内容を語りで表現して解説する[[活動弁士]](弁士)付きで上映された。
*1923年の[[関東大震災]]、[[第二次世界大戦]]の戦災で、燃えやすかったフィルムは消失、散逸し、この時期の作品は残存していないケースも多い。
*[[溝口健二]](『東京行進曲』(1929年)ほか)、[[小津安二郎]](『[[大学は出たけれど]]』(1929年)ほか)などの監督も、若き日にサイレント作品を手がけ、のちの世界的評価を受ける作品の礎を築いている。
*1920年代では、[[ヘンリー小谷]]監督「島の女』(1920年)、[[野村芳亭]]監督『夕刊売り』(1921年)。[[二川文太郎]]監督『雄呂智』(1924年)、[[衣笠貞之助]]監督『狂った一頁』(1926年)、[[伊藤大輔]]監督『忠次旅日記』(1927年)などが話題を呼んだ。
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