2007年2月11日日曜日

映画歴史/1930年代

=== 1930年代 ===
*'''1930年'''
:2月、[[鈴木重吉]]監督『何が彼女をさうさせたか』がヒット。[[内田吐夢]]監督『生ける人形』、[[溝口健二]]監督『都会交響曲』、[[伊藤大輔]]監督『新人斬馬剣』などの[[傾向映画]](左翼思想を背景に社会矛盾、階級対立をテーマとした映画)が全盛となる。
*'''1931年'''
:帝キネが解散して[[新興キネマ]]として再生する。
*'''1932年'''
:[[五所平之助]]監督の『[[マダムと女房]]』(日本初の[[トーキー]]映画)が公開。トーキーの流行で、弁士、楽士らの反トーキー・ストライキ起きる。またトーキーの登場は、採算面から独立プロを直撃し、映画製作は映画会社が専門的に行う傾向が高まる。
:[[入江たか子]]、女優で初の独立プロダクションを設立、[[溝口健二]]が参加。
:[[小林一三]]が映画興業に進出して「写真化学研究所([[PCL]])」(現・[[東宝]]の前身のひとつ)を設立する。
:11月、「宝塚キネマ」が設立される。[[コダック]]の日本代理店だった「長瀬商会」(現・[[長瀬産業]])が京都の映画フイルム現像工場を分離独立させて「極東フィルム研究所」(後の極東現像所、現[[イマジカ]]の前身)を設立する。
*'''1933年'''
:[[上原謙]]が立教大学の学生から松竹入社。新たな映画スターのタイプを作る。
:3月、「映画国策建議案」衆議院で可決。[[映画法]]などの先駆け。官僚統制が始まる。
:6月、銀座に「[[大都映画]]」(後の[[大映]]の前身のひとつ)が設立される。
*'''1934年'''
:1月、[[富士写真フイルム]]創立、国産フィルム量産を発表。同月、日活が現代劇部門を「[[日活撮影所|多摩川撮影所]]」に移転。
:2月、正月に[[有楽町]]に「[[東京宝塚劇場]]」をオープンさせた[[小林一三]]が本格的に東京進出を図り、映画館「日比谷映画劇場」を開場。
:3月、[[内務省]]が映画統制委員会を設置。
:日活京都撮影所の企画部長の[[永田雅一]]が退職して「[[第一映画]]撮影所」を設立。[[川口松太郎]]、[[伊藤大輔]]、[[溝口健二]]や[[山田五十鈴]]らが参加した。
*'''1935年'''
:11月、映画の国家統制機関「[[大日本映画協会]]」が設立される。
:12月、有楽町の[[日本劇場]]の地下に戦況ニュース映画・短編映画を上映する専門館「第一地下劇場」(日本初のニュース映画館)がオープン。
*1935年あたりから[[榎本健一]]がドタバタ喜劇で人気急上昇。
*'''1936年'''
:[[松竹]]キネマが[[松竹蒲田撮影所]]を神奈川県鎌倉の大船に移転し「[[松竹大船撮影所]]」が開設される。以降、[[大船調]]と呼ばれる独自のカラーを作った。
:映画監督の自主独立・相互扶助などを目的に「監督協会」(現[[日本映画監督協会]])が誕生する。
:10月、京都にニュース映画専門館「松竹京都ニュース劇場」(関西初のニュース映画館)が開館する。
*'''1937年'''
:2月、[[小林一三]]が東京錦糸町に「江東楽天地」(現[[東京楽天地]])を設立する。
:4月、松竹キネマが演劇興行の「松竹興行」と合併し、映画・演劇を一元化を図り「[[松竹]]」と改称して新発足する。
:5月、大阪に「大鉄映画劇場」(現[[きんえい]])が設立される。
:8月、[[満州国]]の国策映画制作会社「[[満州映画協会]]」(満映)が設立される。
:9月、[[東宝]]映画会社発足(写真科学研究所、[[PCL]]、東宝映画配給、JOスタジオが合併)。
:11月、林長二郎が暴漢に襲われ、重傷を負う(林長二郎事件)。長二郎が松竹から東宝に移籍したことから、新興キネマ京都撮影所長の[[永田雅一]]らに教唆され、犯行におよんだもの。林長二郎はこの名を松竹に返し、本名の[[長谷川一夫]]を名乗るようになった。
:輸入配給会社「東和商事」(現[[東宝東和]]の前身)の[[川喜多長政]]が「[[新しき土]]」(日本初の日独合作映画)を[[アーノルド・フランク]]、[[伊丹万作]]監督、[[円谷英二]]の特撮で制作する。
:独立プロ「片岡千恵蔵プロダクション」が解散し、社員全員が日活京都に入社。嵯峨野の撮影所は「日活京都第二撮影所」となる
:独立プロ「嵐寛寿郎プロダクション(第二次)」が解散し、嵐寛を除く社員全員が[[新興キネマ]]に入社する。
:*この年を頂点として日本の白黒映画の黄金期が訪れ、次々と名キャメラマンも生まれた。サイレント映画時代から『狂った一頁』などで知られていた杉山公平、『浪人街』『浪花悲歌』『祇園の姉妹』の三木稔、『人情紙風船』ではハリウッドで[[グレッグ・トーランド]]の助手をしていや三村明、また『土』の碧川道夫、『五人の斥候兵』の伊佐山左三郎、『川中島合戦』の三浦光雄など多くのキャメラマンが個性を発揮し、それは戦後の黄金期まで続いた。
*'''1938年'''
:3月、東和商事(現[[東宝東和]])の製作の日本と[[満州映画協会]]の協同作品『東洋平和の道』が[[帝国劇場]]にて上映される。
:4月、「支那事変特別税法」が施行され、映画館に映画入場税が課税([[映画入場税]]の始まり。平成の[[消費税]]の導入で廃止)。
:12月、松竹の女優、[[岡田嘉子]]が演出家の[[杉本良吉]]と共に[[樺太]]国境を越え、[[ソビエト]]に亡命する。
:[[東横映画]]設立。
:[[大阪毎日新聞]]がニュース映画、文化映画を製作する映画部(現・[[毎日映画社]])を設置する
:神戸の富豪、[[池長孟]](のち[[淀川長治]]の姉と結婚)が、アメリカから輸入したカラー映写フィルムで東京・大阪・神戸の市街を映写撮影する。
*'''1939年'''
:4月5日。「[[映画法]]」(映画の事前検閲など国が直接に映画内容に関与した法律。1945年11月廃止)が公布。自由な映画製作が不可能となる。
*佐藤武監督『[[チョコレートと兵隊]]』(1938年)がのちの太平洋戦争中、アメリカ国務省が編成した対日宣伝研究プロジェクト・チームによって、日本人の国民性研究の最も適当なテキストと考えられ、英語字幕を入れて研究試写に使われた。
*30年代では[[伊丹万作]]監督『国士無双』(1932年)、『赤西蠣太』(1936年)、[[小津安二郎]]監督『生まれてはみたけれど』(1932年)、[[山中貞雄]]監督『抱き寝の長脇差』(1932年)、『丹下左善余話百万両の壷』(1935年)『[[人情紙風船]]』(1937年)、内田吐夢監督『人生劇場』(1936年)。[[成瀬巳喜男]]監督『妻よ薔薇のやうに』(1935年)、[[溝口健二]]監督『浪華悲歌』、『[[祇園の姉妹]]』(1936年)、[[野村浩将]]監督『[[愛染かつら]]』(1938年)、[[山本嘉次郎]]監督『綴形教室』(1938年)などの作品が発表された。

0 件のコメント: